毎日、同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、誰かのために仕事をする。
そんな毎日に不満があるわけじゃない。でも、ふとした瞬間に「自分のやりたいこと、これだっけ?」と思うことはないでしょうか。
「やりたいことはあるけど、生活があるし」
そんな風に、心の奥底に蓋をして生きていると、いつしか自分の中のちょっとした違和感にも気がつかなくなってしまいます。
お風呂に入りながらラジオの用にYoutubeを聴いていた時、『ReHacQ』での、俳優・東出昌大さんと極地探検家・角幡唯介さんの対談が流れてきました。
都会の便利な生活を手放し山で暮らす俳優と、北極の闇夜を歩き続ける探検家。
現代社会のレールから大きく外れた二人が語る「幸福論」は、蓋をしてきた自分の中の違和感を思い出させてくれるものでした。
特に、動画の中で語られた「発想は人格である」という言葉。
良いフレーズだなと思ったので、書き残しておきたいと思います。
「やりたい」を無視するのは、自分自身への冒涜だ
対談の中で紹介された、「発想は人格である」という言葉。
人は何かを「やりたい」「あそこに行けそう」と思いつく時、それは単なる気まぐれではありません。
その人がこれまでの人生で積み上げてきた「固有の経験」と、そこから生まれた「直感」が弾き出した答えです。
つまり、ふと頭に浮かんだ「やりたい」という衝動は、自分の人生そのもの(人格)から生まれているということ。
「発想しちゃったのに、自分の人格を否定して押し殺して生きてて、つまんないじゃないですか」
「お金がないから」「時間がないから」「家族がいるから」。
そうやって自分を納得させてきた「諦め」は、実は自分自身の人格(これまでの人生)を否定する行為だったのかもしれません。
ふと浮かんだ「ここに行きたい」「これを作ってみたい」という小さな灯火。
それは、他の誰でもない、これまでのあなたが生きてきたからこそ灯った光です。それを無視し続けることが、日々の「違和感」の正体だったのだと気づかされました。
43歳が人生のピーク?「おじさん」になるのが楽しみになる話
もう一つ、この動画で救われたのが、角幡さんが提唱する「43歳頂点説」です。
20代や30代前半は、体力はあるけれど経験が足りない。だから「何者かになりたい」と焦り、承認欲求に振り回され、空回りしてしまう苦しい時期だと二人は語ります。
でも、40代に入ると景色が変わる。
体力は少し落ちるけれど、「経験値」が積み上がっている。
承認欲求も消え、他人の目なんて気にならなくなり、純粋に「自分が楽しいこと」に全力を注げるようになる。
現在49歳の角幡さんが「今が一番生きてて楽しいっすね」と即答していたのが印象的でした。
私たちは「若さ」に価値を置きがちです。
でも、経験という武器を手に入れた40代こそが、人生を一番自由に遊べる「本番」なのだとしたら。
歳を重ねることになんだかワクワクしてきます。
「便利」を手放して、「生」の手触りを取り戻す
では、どうすれば私たちは「生きている実感」を得られるのか。
東出さんたちのように猟師になるのは難しくても、ヒントは「不便を楽しむこと」にありそうです。
お金を払って誰かにやってもらう(アウトソーシング)生活は、楽だけど、心は乾いていく。
なので、できるだけ「自力(じりき)で生きる」時間を増やす。
- スーパーで肉を買うのではなく、自分で釣った魚を食べる。
- エアコンのスイッチを押すのではなく、自分で焚き火を起こして暖を取る。
そんな風に、自分の手で衣食住に関わる「面倒くさいこと」をした時、人は初めて「あ、俺生きてるな」という手応えを感じるのだそうです。
さいごに
「発想は人格である」
日々過ごす中で小さな「やってみたい」が出てくれば、それを無視しないようにしようと思います。
それは、これまでの人生が導き出した、自分だけの正解だからです。
今度の週末、あえて不便なキャンプに行ってみるのもいい。
ずっと気になっていたあの場所へ、ふらっと行ってみるのもいい。
自分の内側から湧き出た声に正直に行動した時、その「違和感」は晴れて、人生のピークへ向かう新しい一歩になるはずです。
▼角幡さんの書籍


▼紹介した動画
【東出昌大vs角幡唯介】 生きている実感を得たい...自由に生きる2人の最強幸福論!